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『透明なゆりかご』最終話を観て、『海街diary』を思い出した

『透明なゆりかご』最終話を観た。
産婦人科を舞台に、高校の准看護科に通うアルバイトの主人公アオイの視点を中心に、中絶や母体死亡、14歳の妊娠などを描いた本作。最終話のタイトルは「7日間の命」。

由比産婦人科に通う妊婦・灯里の胎児の心臓に異常があることが分かる。何もしなければ誕生後一週間も持たないこと、治療をしても長く生きるのは難しいと告げられた灯里と夫・拓郎は中絶を考えるが、灯里が胎動を感じ始めたことをきっかけに妊娠継続を選択する。
拓郎は積極的治療を行うことを前提とし、子どもが入る予定のNICUがある病院の近くに引っ越すことを視野に入れるなど前向きに動いていたが、30週に入ってから告げられた「生まれてすぐに心不全を起こす可能性があります。……一日でも長く生きられるように頑張りましょう」という言葉に灯里の気持ちは揺れる。
そんな灯里に、院長の由比は「本当に積極的治療を受けさせますか」と尋ねる。「何を今更…」と呟く拓郎、大きな目を開いて由比を見つめる灯里。
「本当にこの子のためになるのかなって。できることは何でもしてあげたい。でも、もしかしたら何もせずに看取ってあげるのも智哉(お腹の子)のためにできることなのかなって」
動揺した拓郎は「だったら先生決めてくださいよ」と言う。
それに対する由比の言葉が印象的だった。
「治療すべきだと思います。それは僕が医者だからです。医者は最後まで治療の可能性にこだわります。それが命を平等に扱うことだと考えます。ですが家族は、たった一人の大切なその人を思って決めればいいと思います。正解も不正解もありません。まわりのことなんか考えなくていい。お二人で決めてあげてください。じゃないときっと後悔が残ります」

 

思い出したのは漫画『海街dialy』だ。

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この物語は四姉妹の父が癌で亡くなることから始まり、加えて長女・幸(看護師)が緩和ケア病棟に配属されることで、度々緩和医療に関するエピソードが登場する。

例えば幸の病棟の患者の上田さん。痛みのコントロールが上手くいき状態が落ち着いたことで、彼の奥さんが医師に言う。(5巻)
「主人はとても元気になったみたいで。娘とも話したんですけど、また治療をはじめたらどうなのかなって」
しかし当の上田さんは幸にそっと打ち明ける。「心配してくれるのはありがたいんだけどさ。ほらいろいろ、抗がん剤だとか新しい治療法とかって探してくるだろ? なんていうか…覚悟が鈍るっていうかさ」

8巻では幸とすず(四女)が緩和ケアについて語る。
「痛みや気持ちの悪さを和らげるのが一番の目的なの。苦しさが和らげば、患者さんはまた時間を取り戻すことができるでしょ。家族との時間だったり、治療しながら仕事を続けたり…人によっては自分の亡くなったあとのことを考えたりね。
どんなに手を尽くしてもすべての病気が治るわけじゃない。治らないことによりそうのも大切だと思ったの」
そう話す幸にすずは「お父さんも時間を取り戻すことができたのかな」と言う。
「お父さんがもうあんまり長くないってわかった時、緩和ケア病棟をすすめられたの。でも陽子さん(すずの父の最後の妻)、そういうとこに入ったらすぐ死んじゃうからやだって。あたし緩和ケアのこと調べて説明したんだけどどうしてもやだって。
お父さん、陽子がそう言うならって、抗がん剤とか最後までがんばちゃって。とってもつらそうだった。
あたしももっと強く言えばよかった。そうすればお父さん、あんなに苦しまなくてもすんだかもしれないのに」


灯里たち夫婦は積極的治療を受けさせないことに決め、出産後、大切に三人の時間を過ごす。そして七日後、智哉は亡くなる。

花が置かれたエンゼルボックスを前に、アオイと二人きりになり、灯里は言う。
「智哉は一日でも長く生きたかったかもしれない。わたしは自分の希望を叶えたかっただけで、この子のためって言いながら、逃げたのよ。
智哉は、どう思ってたんだろう…」

このドラマで、アオイは何度も「人の気持ちが分からない」と言う。他の人には分かることを自分は分からないと感じるし、近くにいた人の気持ちが分からなかったと自分を責めたりする。
しかし、灯里に
「相手の気持ちが分からないって苦しいですよね。でも絶対に分かんないんですよね、自分じゃない人の気持ちは。
だから一生懸命考えるしかなくて、それで自分が出した答えを信じるしかない。
……わたしはうれしかったです。母にぎゅっとしてもらえた時、すごく。子どもがお母さんにしてもらいたいことなんて、それくらいなんじゃないでしょうか」と言う。


『透明なゆりかご』というタイトルは原作者沖田×華氏が連載当初のメインテーマだった「中絶」からイメージしてつけられた。「存在していたのに認識されることなく“ないことにされた”中絶胎児たちの命。存在が透けているような不安定感、不透明感を出したくて」

www.excite.co.jp

(2015年5月14日exciteニュース「生まれたばかりの我が子を見て『ハズレだ』と言った母親の心理。産婦人科実録作者に聞く2」より)

沖田氏の考えとは異なるかもしれないが、中絶胎児のみならず今生きている人たちも「透明」になり得ると考える。というより、わたし自身が「透明」にしてしまう可能性があると思った。
予め長く生きるのは難しいと言われる新生児や終末期の患者、当事者の願いや生きていた時間を意識するのを忘れ、「長く生きられれば幸せだろう」などと軽々しく考えてしまうかもしれない。

考えればキリがなくて、もし自分が答えを出さなきゃならない立場に置かれたら、アオイが言うように、「自分が出した答えを信じるしかない」。けれど、想像は単純な言葉となるだけで、そして言葉は当事者からは遠ざかってしまう気がする。

 

そのようなテーマの中、ぎゅっとしてもらうことが子どもが親にしてもらいたいことだ、というアオイの答えはすとん、と胸に落ちた。それは感覚として理解できるからだ。

灯里の子どもの頃に亡くなった母は、物心ついた時には無菌室に入っていた。
「そばに行きたい。触っていたい。あなたの手はどれだけ温かいの? 髪はさらさら? 肌はふわふわ?
何かに隔てられたまま、さよならするのは、もう嫌」

 

全編を通して、皮膚感覚すらも伝わってくる『透明なゆりかご』。言葉に頼らないシンプルなその感覚をストレートに受け取るのは時にしんどさを伴うけれど、普段言葉にすることで零れ落ちてしまうものたちを忘れずにいられそうな気がする。