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川内倫子氏の個展『Halo』と荒木経惟氏の個展『センチメンタルな旅 1971‐2017‐』について

(2017年の日記から)

 

7月8日 川内倫子氏の個展『Halo』
展示されていたのは9枚。写真集を買った。

この写真集は、大きく分けて3つのテーマで構成されている。
1.ヨーロッパの大きなムクドリの群れ
2.中国河北省の祭「打樹花」
3.出雲・稲佐の浜で行われる神事

小さな鳥が集まってできた大きな群れ、そこから降ってきた糞、ボンネットや地面に積もった糞、打樹花の光る鉄くず、稲佐の浜で降ってきた雨、ダイヤモンドダスト

陽を受けて輝く波打ち際、転がった鉄くずが照らす地面、夕焼け(多分水平線を写した写真)、御神火。
鉄くずは火であり、雨であり、夜空であり、鳥の大群である、真ん中の要素なんだと思う。そうして集まった9枚の写真が並ぶ空間にいるのは、とても気持ちがよかった。


7月22日 荒木経惟氏の個展『センチメンタルな旅 1971‐2017‐』

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『愛のバルコニー』を初めて見た時のこと。本屋で写真の棚の前を通りかかって、目に入った背表紙のタイトルがとても気になって手に取った。ページを一枚ずつ捲る途中で、もしかして、と思っていたら、予想した通りの写真が現れた。初めに感じたのは多分、言語化できないシンプルな悲しさで、うっかりという感じで涙が出た。そして少し胸のあたりが痛くなり、これを作品化することへの疑問を抱くとともに、優しさと愛情を感じた。

優しさと愛情については、自分でもどうして感じたのかよく分からなかった。けれどきっと誤りではないとも思った。ただ被写体となったこの奥さんを使い潰していなければいいと願ってしまった。それはきっと視線が優しかったから。

『愛のバルコニー』を見る前から、作品のためにリアルを利用するということに嫌悪感があった。その嫌悪感は『愛のバルコニー』と繋がっているような気もしたし、全く違う気もした。

それらの記憶は頭の片隅にあって、けれどあまり意識しないままポスターに使われている舟の上の陽子さんの写真を見たくて展示に行くことにした。
ゆっくりと展示を見て、やっと分かった。これらは荒木氏の写真であるけれど、被写体である陽子さんはとても共犯的であったのだと。

わたしの嫌悪感の正体は、たまたまくっきりとした虹に出会ってそれを撮り、「ほらね、きれいでしょ」みたいな被写体だけでどうこうなることへの感情だった。その虹は、悲しい出来事でも代替可能だ。写真はそのままを写すから、誰かとの死別は当然インパクトがあり、共感されやすい。だからこそ、死別をテーマとする時は慎重にならなければ重みを失ってしまう。

けれど荒木氏が撮った陽子さんの写真は、陽子さんが荒木氏だけに見せたのであろう表情や空気感、積み重ねた時間が詰まったもので、その関係をはじめからおわりまで写すのは当然のことのように思えた。