ここは海抜2.8メートル

ここは、自分のための雑記置き場です。

「今日から春」という感覚からはじまる話

youtu.be

2017年春に放映されていた「LINE MOBILE」のCM。この交差点編には、初めて観た時から心を掴まれ続けている。
少し黄色がかった光は、まだ日没の時間が早く感じられる春の午後(その頃の温度やにおいまでも)を想起させる。あの光に当たったものが、こうやって浮かび上がるのを見たことがある。この光を知っている、と思った。

そこに流れるのは、キリンジ『エイリアンズ』。この曲の歌詞に季節を表す言葉は何もないけれど、わたしは春の夜の曲だと思っている。

冬から春になる頃の感覚が好きだった。毎年、「今日から春ね」と分かるのが面白かった。「今日から春」っていう感覚、あるよね? と周囲の人に尋ねまくって気づいたけれど、これは、花粉症や「出会いと別れ」が憂鬱な人たちにはあまりない感覚のようだ。彼らはそれどころではないのかもしれない。

f:id:szkshiro:20190130215819j:plain

冬眠から覚めるような、花を咲かすような、感覚。同じ生物として体や脳に元々備わっている感覚なのかもしれないと思ってきた。
あの映像と『エイリアンズ』の組み合わせは、その感覚を見事に生じさせるのです。

「これ知っている」という感覚。デジャヴとも少し違うその感覚を探すために、写真や映像、小説、絵画、音楽に触れてきた気がします。

 

先日、鈴木理策氏の写真展『知覚の感光板』を見に行ってきました。タイトルは画家セザンヌの言葉。

セザンヌは)芸術家の身体を感覚の記録装置とみなし、受け取った全てを画布に定着させようと試みました。匂いや音など視覚以外の感覚も色彩によって表すことができると信じ、「目に見える自然」と「感じ取れる自然」が渾然一体となるように描いたセザンヌの絵画は、「何を描いたか」ではなく「モチーフから感じ取ったもの」そのものを私たちに見せてくれます。

カメラの機械的な視覚は、人間の見え方とは大きく異なります。私たちは行動に必要な情報だけを取捨選択してものを見ているからです。カメラの純粋知覚は私たちが見捨てた世界の細部をも写し出してしまう。(『知覚の感光板』ステートメントより一部抜粋)

ここで展示されていたのは、近代の画家たちがモチーフに選んだ土地で撮影した写真。そこに写っているどの場所にも行ったことはないけれど、その場の空気の流れ、光の眩しさ、草のにおい、湿度を、感じられた。加えて、うるうるした植物を見た時の渇きが癒える感覚とか、木漏れ日の下で感じる、光をそのまま瓶に詰めてしまいたくなる気持ちとか、そういうふわっとしたものまでその場に生まれる。
よく、いい写真に対して言われるような「動きがある」というのとは絶対に違う。「奥行きがある」というのとも違う。写真は平面でしかないのに、与えられる情報量が多いのです。

 

また、この日は上野のフェルメール展にも行ってきた。ポスターに大きく使われていたのは『牛乳を注ぐ女』だったけれど、一番楽しみだったのは『手紙を書く婦人と召使い』だった。

フェルメールを好きになったきっかけはフェルメールブルーのうつくしさだったけれど、画集を見るうちに「白」に心惹かれるようになった。自分が知っていた「白」よりもさらに明るい「白」。日常生活ではあまり見かけないほどの「白」だけれど、確かに見たことがある「白」。
「光の魔術師」とも言われるフェルメール。生活は光に溢れているけれど、フェルメールの特別な光ってなんなのか。最も近いのは、深海で生き物たちが潜水艇の光に照らされた時のくっきりとした透明感だと思う。それもまた、映像でしか見たことのないものなのですが。
8つの作品が並ぶ中、『手紙を書く婦人と召使い』はまるで発光しているかのようで、目が離せなかった。他の作品にもそれぞれいたのだろうけれど、この作品を全く動かずに見つめ続けている人がいた。わたしの隣に立った1人で来ていたであろう女性は、この絵を見て小さく「すごい」と漏らした。それにこっそり、マスクの下で微笑んでしまった。ひとりごとも1人笑うことも、誰にも気づかれず許される空間で、南極のコウテイペンギンみたいに人と密着した状態で、いつか見た「白」に向き合う。

それと、映画『真珠の耳飾りの少女』のすばらしさを再確認しました。フェルメール作品を見る度に思い出す。

 

時代や場所、人種に関係なく誰かと感覚を共有しているかもしれない。そう思うと、ちょっとだけ寂しさが紛れる気がする。