ここは海抜2.8メートル

ここは、自分のための雑記置き場です。

「世界の果ては折りたたまれて、世界の内側にもぐりこんでいる」

(この記事は森見登美彦氏の作品『ペンギン・ハイウェイ』と『夜行』の物語の核心に触れています)

ペンギン・ハイウェイ』を読んだのは、高校生の時です。書店で平積みされた単行本の表紙に惹かれて手に取り、1ページ読んですぐ、「これは絶対好きになる」と思ったし、著者名も見ずに一気に読んだ。あとから森見登美彦氏だったと気付いて驚いた。なぜならその1年前、『夜は短し歩けよ乙女』を読むのにとても時間を掛けたからだ。うまく読めず、けれど『夜は短し歩けよ乙女』は当時同級生の間でも人気で、わたしの頭が悪いからかな、と寂しく思ったりした。わたしも中村佑介氏のきれいでかわいいイラストが描かれたあの本を大切に持ち歩いたりしたかった。わたしが書店で『ペンギン・ハイウェイ』を見つける前には、『四畳半神話大系』のアニメも始まって、それを楽しむ空気も羨ましかった。結局、アニメ『四畳半神話大系』を観たのは2017年で、あの主人公のナレーションと同じスピードで原作を読んだらスムーズに読めた。そして映画『夜は短し歩けよ乙女』を観る前に、それっきり手を伸ばさなかった原作にもう一度チャレンジしたら、今度はすんなりと頭に入った。早くアニメ『四畳半神話大系』を観ておくべきだった。

森見登美彦氏の作品を好きになるまでに、随分遠回りした気がします。

 

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ペンギン・ハイウェイ』は人生で最も好きになった小説です。大学生になってから沢山本を読んだけれどここまで好きになったものはなかった。
探検、ペンギン、〈海〉、歯科医院のお姉さん。「郊外の新しい街」という舞台は物語に集中させてくれるし(森見氏の作品といえば京都ですが、それはそれで大好きです)、子どもの頃の視点を思い出すような描写、小学生の主人公と対等に接する大人たち。

 

そんな大好きな作品だったから、映画化はとてもうれしかった。


お姉さんが投げたコーラの缶がペンギンに変わる瞬間、アオヤマ君が見る海の夢、〈海〉のプロミネンス、〈海〉の中の海辺の街。自分でも何度も想像したけれど、やっぱり映像で観たかった。
映画化すると聞いて期待したシーンはやっぱりきらきらと描かれていて、宝箱をもらったかのような気持ちになった。

好きな作品が映画化される時にいつも楽しみなのは、どこが削られるのか、ということ。
ペンギン・ハイウェイ』で印象的な登場人物はお姉さんだけれど、実際に多く描かれているのはどちらかといえばウチダ君やハマモトさんといった同級生たちとの日常だ。
しかし映画では、お姉さんとのやり取りが多く描かれることとなった。
お姉さんを演じた蒼井優氏は映画パンフレットの中で「(お姉さんは)アオヤマ君という歳の離れた少年を可愛がっているようでいて、実はとても信頼しているんです」と語る。
小説を読むだけでも登場人物の心理や他者との関係性、台詞の抑揚などは想像できるけれど、声優(キャスト)や監督などの解釈が反映された声を聞くということは、物語を享受するための一つの手段だ。
映画化により削られる部分が発生し、その代わり何かが丁寧に描かれる。
そして、何度も読んだ作品がすばらしい映画になった時、削られたすてきな部分や小説ならではの良さが浮き彫りになるというたのしい現象が起きたりもする。

まずは、文章が本当に美しいということ。

「空き地の真ん中までいって空を見上げると、自分がサバンナにころがっている石ころになったような気がした。とはいっても、これはあくまでたとえである。石ころの気持ちは、さすがのぼくにも分からない。
 空はクリーム色のまじった水色で、宇宙科学館のプラネタリウムで見た空に似ていた。ドームのようにまるい空を、くっきりした飛行機雲が横切っている。飛行機雲の先端には小さな旅客機があった。じっと見つめていると、旅客機はすべすべした曲面を滑るように動きながら、今も飛行機雲をちょっとずつ延長しているのだ。」(p.21)

「水に完全にもぐってしまうと、音が遠ざかって、ふしぎな静けさがぼくをつつむ。自分が泡を吐く音が大きく聞こえる。ぼくのまわりには同級生たちの体がいっぱい見える。もぐってギュッと目をつむったまま顔をしかめている子もいる。向こうに見えているのはプールサイドに座って水の中に垂らしているウチダ君の足だ。プールの底から見上げると、水面がゆらゆらして光っていた。」(p.167)

子どもの頃に確かに抱いた感覚がうつくしい文章となって散らばっているのもこの作品の魅力の一つである。

次に再確認したのは、それらの感覚の中で最も丁寧に描かれている、「死」の存在。そして、ウチダ君というキャラクターのおもしろさだ。
主人公アオヤマ君の妹が「お母さんが死んじゃう」と泣くシーンは映画でも扱われていたが、原作にはその続きがある。
アオヤマ君はウチダ君と川を探検をしている際、大きな古い松の木を見て、「木は人間より長生きだろうね……地球の歴史に比べたら、人間はすぐに死んじゃうね」と言う。
そして妹のことをウチダ君に話す。ウチダ君はとくに夜になるといつも考える、と言う。

「ほかの人が死ぬということと、ぼくが死ぬということは、ぜんぜんちがう。それはもうぜったいにちがうんだ。ほかの人が死ぬとき、ぼくはまだ生きていて、死ぬということを外から見ている。でもぼくが死ぬときはそうじゃない。ぼくが死んだあとの世界はもう世界じゃない。世界はそこで終わる」(p.288)

「ぼくは生きているうちにいろんな事件に出会って、死ぬかもしれないし、死なないかもしれない。どんなときでも、どちらかだよね? そのたびに世界はこうやって枝分かれする。それで、ぼくは、自分というものは、必ず、こっちの僕が生きている世界にいると思うんだよ。……枝分かれがくるたびに、ぼくはこっちの生きるほうへ、生きるほうへ進んでいくんだ」(p.289)

科学の子であるアオヤマ君とハマモトさんの影に隠れがちなウチダ君だけれど、スズキ君の恋心やハマモトさんの嫉妬心を理解している。「無」や「世界の果て」、ブラックホールに対して「こわいなあ」と言うし、探検に出る時はいつも「命の危険がある」からと底なし沼に用心しているけれど、「死」から目を逸らさずに結論を出す。それは彼が以前暮らしていた「県境の向こうの街」の病気の友だちと関係しているんだろうか。

また、彼の仮説は『四畳半神話大系』や『夜行』といった作品で扱われる並行世界を想起させる。

「世界の果ては折りたたまれて、世界の内側にもぐりこんでいる」(p.225)

まるで宇宙のように無限に広がる世界が、この作品の中にはもぐりこんでいるのかもしれない。アオヤマ君とお姉さんの別れは死別とは異なるけれど、近しいものである。しかし、『四畳半神話大系』や『夜行』のように、枝分かれした世界が交差する瞬間もあるかもしれない。