ここは海抜2.8メートル

ここは、自分のための雑記置き場です。

『ソフィ カル―限局性激痛』について

家から自転車で20分ほどの場所にある公園に、大きなミモザの木があった。一昨年の春に見つけて、花が咲くのを毎年楽しみにしていたけれど、この間行ったら切られていた。切られていた、というのはもしかしたら誤りで、後になってミモザの木がある場所を調べていたら、あるお寺にあった木が昨年の台風で折れてしまったという情報を見つけたので、あの木もそうだったのかもしれない。

 

f:id:szkshiro:20190324210332j:plain

元々、あらゆる景色は永遠のものではない、という気持ちを常に抱えている。それは海の近くで育ったからだと思う。
それでも大きな木というのは、(種類によるけれど)自分が生まれるよりも前からあって、自分が死んでからもそこにあり続けると思える存在だった。
けれど鶴岡八幡宮の大銀杏も台風で倒れてしまったし、段葛の桜たちも変わった。

この間、職場の食堂でたまたま近くに座った先輩は、この季節になると近所の枝垂桜が咲くのを楽しみにしていたのに、その木は切られ、今はその土地に家が建てられているところなのだと言っていた。わたしがミモザの話をして写真を見せたら、彼女も枝垂桜の写真を見せてくれた。「撮っておいてよかった。あなたもそれ、大事にしなきゃね」と言われた。

 

2月、原美術館に『ソフィ カル―限局性激痛』という展示を見に行った。

 

f:id:szkshiro:20190324210443j:plain

『限局性激痛』1999年
1984年、私は日本に三カ月滞在できる奨学金を得た。10月25日に出発した時は、この日が九十二日間のカウントダウンへの始まりになるとは思いもよらなかった。その果てに待っていたのはありふれた別れなのだが、とはいえ、私にとってそれは人生で最大の苦しみだった。
私は日本滞在こそが悪の根源だと考えた。1985年1月28日、フランスへ帰国すると厄払いのために、滞在中の出来事ではなく、私の苦しみを人に語ることに決めた。その代わり、友人だったり、偶然出会っただけの人だったりするその話し相手にも、自分が最も苦しんだ経験を語ってもらうよう頼んだ。ほかの人々の話を聞いて私の苦しみが相対化されるか、自分の話をさんざん人に話して聞かせた結果、もう語り尽くしたと感じるにいたる時まで、私はこのやりとりを続けることにした。この方法は根治させる力を持っていた。三カ月後、私はもう苦しまなくなっていたのだ。厄払いが成功してしまうと、ぶり返すのが怖かったので私はこの一見を忘れ去った。十五年たって、私はそれを掘り起こすのである。(展示で配布されたソフィ カルによるステートメントより)

この展示は19年前に開催されたものの再現展だった。彼女の失恋体験、「人生最悪の日」までの出来事を手紙や写真で表した一部と、その不幸を誰かに語り、相手からも人生最悪の不幸について話してもらうことで癒されていく過程を文章と写真で表した二部から構成されている。

好きだと思ったのは92日間の記録だ。趣旨からは外れているかもしれないけれど、知らない人の日常、それも外国の人の日本での日常というのは、新鮮なものだし、しかも彼女が日本にいた頃、わたしはまだ生まれていなくて、それがとても面白いと思った。

 

原美術館は2020年12月に閉館となる。

初めて行ったけれど、木漏れ日がきれいで、館内には不思議なドアやスペースがあって、楽しい建物だった。
企画展の途中にあったドアは、職員用の部屋に通じているんだろうと思っていたのに20歳くらいの女の子が入って行って、そこも展示スペースだと分かり、入ってみると奈良美智氏の展示室になっていた。わたしが入るのを見た女性が後から入ってきて、「ここも展示だったのね、分からなかったわ」「わたしも他の方が入るのが見えて」「面白いわよね、ここ。元々はお家だったのよね」とお話をした。

 

木と同様、建物も永遠の存在ではない。ソフィ カルだって、残すつもりでなければ92日間なんて長い月日を取り出し可能なものにすることはできなかったのではないかと思う。

全部、文字や写真で残さなければなくなってしまうかと言うとそんなことはないと思う。それが具体的にいつのことでどんな風に見えていたのかを思い出せなくなっても、なんとなく存在し続ける。けれど、あの美術館がなくなってしまったら、あの日見た木漏れ日や作品たち、知らない人との会話にアクセスしづらくなる。それは少し寂しいな、と感じて、時々は、彼女みたいに残しておきたいと思った。